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伝統文化 南地芸妓 お茶屋たに川
(花街)

南地芸妓 お茶屋たに川

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南地芸妓 お茶屋たに川

ナンチゲイコ

NANCHI GEIKO TANIGAWA

大阪府 伝統文化 花街

夢か、うつつか。桃源郷はここにあり。

「あれはある冬のことでした。真冬にも関わらず熱気で窓を開けるくらいお座敷が盛り上がった時に、ハッと気がつきました。近代的な照明なり空調はありますけれども、畳に座り車座になってお酒を呑みながら、芸や遊びを真剣楽しんだり、負けたらひっくりかえって悔しがる。昔となんら変わっていない。私は人間の根源的な営みに触れる仕事をしているんだなぁと思いました。」

南地花街(なんちかがい)とは?

芸妓や花街といえばやはり京都。しかしここ大阪もかつては栄華を誇った花街がたくさん存在。
中でも通称「ミナミ」として知られる南地花街には、細かく分けて5つの花街(宗右衛門町・九郎右衛門町・櫓町・阪町・難波新地)があり、それらを総称して「南地五花街」と呼んだ。明治以降は新町や堀江に代わって大阪最大の花街となったが、今では住居表示に関する法律により古くからの町名が消滅し、残っているのは宗右衛門町のみである。

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京都ではなく大阪花街の変遷と、残る1軒

大阪の近代化と消えた花街


かつての大阪は「天下の台所」。都であり日本一の生産都市である「京都」をすぐそばに持つことから、江戸と双璧をなす消費都市でした。特に幕末には全国からお侍が集まり、夜な夜な会合や宴会を開いたという。
そしてピークは、実はこの頃だったのかもしれない。
「大阪は大都市がゆえに、開発スピードが早く、古いものを残しにくい街」そう教えてくれたのは、冒頭のエピソードも語ってくれたお茶屋「たに川」の主人、谷川恵(めぐむ)氏。

大正、昭和と花柳界や企業に支えられ歩みを進めてきたものの、変わりゆく大阪の街とともに、南地花街は「たに川」の一軒を残すのみに。
谷川:ミナミの代表的なお店であった大和屋さんが2003年閉店してからは、うちがミナミの歴史とこれからを新しい方法で伝承していきたい

京都と大阪 花街の違い


谷マチ:京都は組合があって置屋があり、お茶屋がある。芸舞妓さんは置屋さんに所属して、仕事が入るとお茶屋に派遣されるというようなシステムですが、大阪は違うようですね?

谷川:そうですね。実は大阪にも昔は組合があって、検番というお茶屋さんや置屋さんのような芸妓が所属する会もあったんです。当時から京都と違うところで言えば置屋さんのように寝食までは共にしないところですね。
だんだんと芸妓が減り、組合も解散し、所属していた会も無くなったので、うちが勝手に京都でいうところの置屋にあたる検番業務をさせてもろてます。

谷マチ:京都と大阪ではお花代のシステムも違うとか?

谷川:京都はお店を出てからお店に戻るまでが芸妓さんにつくお花代の時間やけど、大阪は宴会が始まって終わるまで。そやから芸妓が足りないとき京都から芸妓さんを呼ぶとなるとお客さんにとってもすごく負担になりますので、お花代のシステムが大阪よりである、奈良の芸妓さんを呼んでいた時期もありました。

コロナでわかった伝統産業の絶望と希望


谷川:毎年必ずあった宴会がなくなり、コロナを機会にお茶屋遊びを卒業されるお客さんもたくさんいらっしゃいました。「伝統産業はこうやって忘れ去られてしまうんやないか」と不安や恐怖との闘いの日々でした。けれども芸妓たちはコロナ期間中誰もやめなかったんです。
客足が遠のいて苦労している姿を撮りたくて新聞社さんが取材に来てくれはりましたが、
彼女たちは驚くほど前向きに夢を語っていたんです。
その時に「この子たちを、この花街を、そしてこの尊い産業を何としてでも守り抜かなあかん。」
そう思いました。

2年前の冬、たに川の門を叩いた千鶴さん―


千鶴:祖母がお花やお茶の先生をしていたこともあり、小さい頃から和文化に触れる機会が多く大変興味がありましたので、高校生の時に芸能文化学を専攻しました。
ただ楽しく日本舞踊や三味線の授業に取り組む私の姿を見ていた祖母からの
「芸妓さんを目指してみたら?」
という提案が私をこの世界に誘いました。

千鶴:高校を卒業前にやめ、芸妓を目指して京都でお稽古をしていましたが、コロナで先行きが立たなくなり志半ばで実家の大阪に帰ってきたんです。
私の夢はもう叶わないのかなと思いつめる日々でしたが、一度は踏み込んだ世界、どうしても諦めがつかず
「もう一度芸妓の道に進みたいと思っている」と高校時代の先輩に相談しました。
すると「私、今大阪で芸妓の修行をしてるよ」と驚きの返事が返ってきました。
それが今も「たに川」に在籍するまり鶴さんお姉さんです。
まさにお導きだと思い、藁にも縋る思いで「たに川」さんへ伺いました。

芸妓さんは歩く文化


谷マチ:芸妓さんは、踊りやお琴、三味線、お茶、お花、お着物、所作など日本の女性の美しさに関連するもの全てを網羅する職業ですので、ほんまもんの芸や精神が裏打ちする“内から湧き出た美しさ”を感じますね。

千鶴:そうですね。お姉さん方はいつ何時でも芸妓さんなんですよね。
いつ見ても所作や言葉遣いが美しいですし、誰が見てる見てないやなしに、着物をシワなく畳むとかそういう小さいことの積み重ねが芸妓の美しさを作り上げてるんやと思います。

谷マチ:私には千鶴さんももう立派な芸妓さんに見えますが?

千鶴:初めは、厳しいことが待ってるんやろうなぁという不安な気持ちももちろんありましたが、もう一度夢を叶えるという強い意志がありましたし、さらにまり鶴さんお姉さん始め他の在籍するお姉さん方もすごく優しくしてくださったので「たに川」でなら頑張っていける、ここで夢を叶えたいと思いました。
昨年11月にお披露目(京都でいうお見世出し)を終え、芸妓千鶴として、なりたかった自分を毎日楽しんでいます。
この環境を用意してくださる谷川のお父さんや、応援してくださる方、すなわち“タニマチ”さんがいてくれはってこそ、進める道やなと感じています。

谷川:今回の「谷マチ」さんのお話もそうですが、我々は支えや応援あっての産業です。しかし閉鎖的な部分が売りでもあるので魅力の伝え方が難しいのです。

  • 最後のお茶屋「たに川」当主の谷川恵氏

    最後のお茶屋「たに川」当主の谷川恵氏

  • 今回フォーカスした千鶴さん

    今回フォーカスした千鶴さん

  • 千鶴にきっかけを与えたまり鶴さん

    千鶴にきっかけを与えたまり鶴さん

  • 見習い時代の千鶴さん

    見習い時代の千鶴さん

  • 目録と共に、芸妓のお披露目

    目録と共に、芸妓のお披露目

  • お姉さん方と踊りの催事や、

    お姉さん方と踊りの催事や、

  • お座敷に上がり、日々精進

    お座敷に上がり、日々精進

  • 南地芸妓発展のため自主映画に挑戦

    南地芸妓発展のため自主映画に挑戦

  • お茶屋たに川は置き屋と組合の機能も担う。

    お茶屋たに川は置き屋と組合の機能も担う。

  • オフショット:井戸端会議

    オフショット:井戸端会議

  • オフショット:芸妓の後ろ姿

    オフショット:芸妓の後ろ姿

  • オフショット:まり鶴と千鶴

    オフショット:まり鶴と千鶴

課題と展望〜ガラス張りの一見さんお断りへ

谷川:一番はお座敷が増えること。
我々の世界と自分たちとは縁のないものと思ってはる人が多かったり、周りにお茶屋さんへ連れてってくれはる人がいなかったりと、この尊い文化の衰退が目に見えている今、
“ガラス張りの一見さんお断り”にせなあかんと思っているんです。
昔はこっちから何も発信しないのが美学とされていました。
ミステリアスな部分が多いことが売りでもありますが、魅せるべきものは魅せていかなければならない時代になっています。

千鶴:認知を広げる活動の一環として、はじめての試みの自主制作映画“鶴になる”を製作しました。私自身が憧れの対象となりこの世界に踏み込んでくれる子が増えるような活動にも繋がってほしいと思っています。おたの申します。

冒頭の小話、その続き。

お客さんが帰り際に「夢を見ているようだった」と言ってくれることがありますが、ここに来て宴会をすると無意識のうちに日本の始まりとか何千年の時間を体験して、もとの現実の世界に帰っていく。
お茶屋さんが今に生きる存在価値とはこれだ!芸妓さんは、アメノウズメの子孫なんだ!と思いました。
私は長年花街で生きてきて、繊細で上質の極みである日本文化を総合的に体験できる素晴らしい役割であると確信してるんです。

南地芸妓 お茶屋たに川
大阪府 伝統文化 花街

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